常識と非常識

負の学習によって無気力になる、学習性無力感。これが組織に蔓延すると回復は困難になると聞いた
事がある。肉食のカマスとエサの小魚を硝子で仕切り、長時間過すと、仕切りを取ってもカマスが小
魚を食べずに餓死する状況。これを打開するにはどうすれば良いか。これには、水槽に元気なカマス
を入れる方法があるそうだが、同じような話しで、その困難さが分かる内容があった。

チンパンジーを5匹檻に入れ、上からバナナを吊す。そこでバナナを取ろうとすれば、上から水を掛
ける。これを続けると条件づけが起こり、いずれバナナを取らなくなる。

そのチンパンジーを5匹育て、新たに元気なチンパンジーを入れると、バナナを取ろうとするのだが、
先の5匹が止める。そして止められて育ったチンパンジーを5匹集め、そこに新たなチンパンジー
入れると、止められただけの5匹が、新たに取ろうとするチンパンジーを止める。

恐ろしいのは、最後の5匹は、止めようとする理由を知らず、ただ止める条件付けが身に付いてるだ
けである点。そしてバナナを取り続けられる元気なチンパンジーが居ても、その檻の中では非常識と
なる点だ。

人間社会でも、電車では、隣の人と無闇に話さないという常識がある。しかし、田舎の一両編成の電
車に乗ると、駅毎に、乗る客、乗る客が、車中の人と話し出す。しかし街から来た人は話さないので、
挨拶の出来ない人となる。

そうした見えない力で、組織でも、常識、非常識が生まれてくる。コミュニケート能力が低下し、社
会性を失った人間といわれる社会問題も確実にある。そのうち、あの人は道で知り合いに会うと、元
気に挨拶をする、変な人だと、メールで会話をする社会が来ると懸念する声もある。これが常識とな
るのか、非常識のままであるのか。解決法として信じられるのは、自分自身が元気なカマスであり続
け、元気なカマスと出会って行く道だ。